光よ、永遠なれ。──松本潤PERSPECTIVE展の話

 

美しい人だ、と思った

 

もう人生で何回思ったかわからないけれど、展覧会に行ってもやっぱりわたしは、松本潤さんのことを美しい人だと思った、それも新鮮に。あれもこれも、とにかく彼は美しい。

 

円盤特典のドキュメンタリーとか、NHKのドキュメンタリーとか、それこそVoyageとか。あとは雑誌のインタビューもかな。そういった媒体で見る彼が「熱く本音を語る場面」を多く見てきたせいか、潤くんの思考回路を知った気になっていたのかもしれない。潤くんの思考に「敢えて」深く触れる場面って実は今まであんまりなかったんだよなと、展覧会を終えてから気づいた。

 

前から知っていたような、初めて知るような。そんな、決して揺るがない、けれども常に新しい美しさを纏う人だと思う。

目眩く速さで新しくなっていく彼のことをずっと追いかけていたいし、新しくなる毎に大きくなっていくその背中に、何度だって心を奪われる。

 

 

闇と光とか、過去と未来とか、後悔と希望とか。

真逆の、あるいは表裏一体の有象無象と共に生きる潤くんを、潤くんだけをじっくり見つめる時間の中で、松本潤とは一体どんな人間なんだろうかと、そればかり考えていたような気がする。

潤くんは「家康と自分の境界がわからなくなった」と言ったけれど。わたしは、松本潤という人間の輪郭がわからなくなった。

 

創造、発展、追求、矜持、情熱

 

どれも彼を構成する言葉として正解で、どれもやっぱり物足りない。だけれども、形容し難いまでのその強烈な輝きは、言葉で語られる必要もないような気がした。そのために、五感で彼を感じるこの展覧会があるような気さえした。

 

 

そしてただひたすらに、「光だ」と思った。

光そのもの。

 

過去に思いを馳せながら未来を語る潤くんの言葉は紛うことなき「今」の彼の想いで、確実に「今」を生きていて。展覧会も終盤のブースになって初めて、そういえばわたしが見る潤くんはいつだって刹那性に満ちていたじゃないかと、ふと思い出した。

 

星の光が長い時間をかけて地球を照らすように、「今」を生きる潤くんのエンターテイメントに対する想いは、何十年何百年先にも繋がって、いつかの誰かを照らすんだろうな。

光のような彼が見せてくれる「今」は、きっと永遠より長い。

 

 

実に美しい人だと思う。

泥臭く、孤独と隣り合わせで、絶やすことない炎を心に灯してエンターテイメントに向き合う彼の覚悟と闘志を知ってしまったから。一瞬一瞬のエンターテイメントに命を燃やす彼のしなやかな強さを、美しいと思ってしまったから。だからわたしは、彼の創造するエンターテイメントが繋がり続けていく限り、きっともう松本潤さんのことが永遠に好きなんだろうな。

 

ありきたりな言葉にはなってしまうけれど、松本潤さんが創造するエンターテイメントが、松本潤さんがエンターテイメントにかける想いが永遠となりますようにと、ただそれだけを、祈るように願う。

 

 

 

#松本潤PERSPECTIVE展

#松本潤展覧会

愛するスーパーヒーロー松本潤さんへ

 

 

松本潤さんが好きです。なにを今更って感じだけど、わたしほんとに潤くんが好きなの。

 

 

ジャニーズって「正直アイドルに興味なかった」って人多いじゃないですか。それは嵐も例外じゃなくて。実は「辞めようと思ってた」「嵐に選ばれてなかったら辞めてた」って人がなんとビックリ5分の3。だからこそそんな5人が20年嵐で居続けてくれたことはもちろん奇跡のようで、嬉しくって愛しい。

アイドルに対して興味のない普通の少年がアイドルになっていく過程、それに心惹かれる気持ちは十分に理解できる。わたしだってそう。

 

だけどわたしはやっぱりね、最初からアイドルに憧れて、グループの中で5分の3が辞めたがってるような中でも「アイドルになりたい」の意志を曲げる事なく貫いた松本潤というアイドルが、泣きたいくらいに好きなんですよ。アイドルに憧れて、アイドルを目指して、アイドルになって、アイドルであろうとし続けて、ほんとにトップアイドルになった。わたしにとってのスーパーヒーローは彼しかいない。最初で最後の1番だと思う。

 

他の誰でもない自分自身で履歴書を送って、他の誰でもない自分の意志でアイドルを夢見てくれた潤くんを応援できる事。トップアイドルになってもなお「嵐は夢」だと語る潤くんを応援できる事。大好きな人が大好きなことをしてる姿を応援できる事ほど、こんなに幸せなことは無いと思う。20年以上最初から最後までアイドルを夢見続けてくれた潤くんが、何よりも好きで、それから、何度言ったって足りないありがとう。

 

最近潤くんに会えない日々が続いてるから、何度も何度も記憶の中の潤くんを取り出して噛み締めてる。笑顔も泣き顔も怒った顔も驚いた顔も全部、思い出すだけでニヤけちゃうくらいには大好き。

けれどもやっぱり2020年の大晦日の泣き顔だけは、思い出すだけでわたしまでなんだか泣きそうになっちゃうね。

 

潤くんのあの涙を思い出すと、潤くんに対する感謝とか聞きたいこととか、わたしの胸の中の断片が山ほど溢れ出てくる。

 

あんなに「アイドル」を生きてる人を、わたしは他に知らないから。送った履歴書1枚だけでジャニー喜多川直々に電話がかかってくるくらいには、神に愛された天性のアイドルで。実際「職業アイドル」として生きることに覚悟を決めて、極めて。生まれながらの「アイドル」だからこそ、それだけを突き詰めてきた人間がマイクを置く決意をするって、どれだけ大きな覚悟なんだろうって考えてしまう。

そしてそれから、涙ながらに「いつかまたこの夢の続きをしたい」と語る彼にとって、「僕にとっても嵐は夢でした」は決して過去になんかならない、この先未来永劫だってそうであり続けるんだろうなと思って、そうであればいいなと強く願う。潤くんの純粋さと嵐に対する大きな大きな愛に、また泣きそうで。それからそれから、泣いてグチャグチャになった顔だって最高に美しい彼に、何度だって新鮮に惚れ惚れする。

 

素直だけじゃやっていけない世界で生きてきたはずの彼の口から紡がれる「いつかまたこの夢の続きをしたい」という、素直以外の何でもない言葉。その後に大好きなリーダーを思いやって「わかんないけど」と、少し寂しそうに笑って付け足すような不器用な優しさも、全部が本当に大好きなんですよ。

いつだって素直で、ホンモノだけを届けてくれて、想ってくれて、ほんとにほんとにありがとう。そう思わずにはいられない。

 

 

1ヶ月に1回のそれはそれは丁寧で誠実で温かい、まるでお手紙みたいに語りかけてくれるEnjoyが、今のわたしの心の拠り所。それから「Baby Blue」も。潤くんがヒトだとかモノだとか全て含めた「世界」に対して持つ心の清らかさとか、愛とか、彼の全てが詰まったような宝物。これからもきっとお世話になる。わたしは一生Baby BlueとEnjoyと添い遂げる。どうかわたしのお葬式にはBaby Blueを流してお経はEnjoyの朗読にしてください(本気)

 

マイクを置いた潤くんがどうやら新しい道を歩き始めたようです。潤くんが準備を進めているときの、何だかわからないけどとにかく美しい花が咲きそうな予感が、すぐそこで芽吹いてる気配が、いつだってわたしの心のトキメキにかわる。やっぱり潤くんはわたしのヒーローで、トクベツ。

 

これからもどうか、わたしのスーパーヒーローでいてください。スーパーヒーローにすることを許してください。マイクを一旦置いたあなたが進む道が、どうか新しい貴方らしさで満ちた夢で溢れていますように。愛しています。

ジャニーズ事務所入所25周年を迎えた松本潤さんへ。

 

Bon voyage !!

 

〜完〜

始まりはいつだってそう何かが終わること

 

 

 

Voyage最終回を見ましたって話をします。ネタバレはしてない。

140字にはまとまらないけどブログにするには少し短い、そんなわたしの記憶と思考の置き場所です。

 

 

ぼやじゃ最終回を見ててふと頭に浮かんだのが乃木坂46の『サヨナラの意味』に出てくる"始まりはいつだってそう何かが終わること"って歌詞なんだけど、これって「終わりは始まりだよ、だから躊躇うな」とかの、よくあるポジティブな応援の意味だとわたしはどうしても思えなくて。どちらかと言うと現実を突きつけてくるグサっとワード。わたし自身は乃木坂に詳しくないので、「乃木坂が歌うからグッとくるんだろうな」ポイントはわからないから勝手なことは言えないけど。この言葉自体はどちらかと言うと消極的なワードだよなあと、そう思うのです。

 

 今回のVoyageでの「2020.12.31の終わりから始まって、始まりで終わる構成」、「LIVEのオープニングを最終回のラストに持ってくる構成」がまさにそれ。「終わりは何かの始まりで、始まりは何かの終わり」言ってる事はどちらも大差はないはずなのに、「始まりは終わり」だと言われた方がなんだか切ない。ような気がする。

 

 ただこの『サヨナラの意味』という曲、わたしが挙げた部分の歌詞だけにフォーカスすると優しくないように思えるけど、全体を通して見ると「始まりはいつだってそう何かが終わること」は一周回って優しさなんですよね。むしろ優しさでしかない。

 

 

例えば「別れ=終わり」だとしてみる。

もしも歌詞が「終わりは何かの始まりだ」だったとしたら。

そうするとサヨナラは美化される気がする。別れに対する名残惜しさとか、別れの時までにできたはずの何かをやらなかった後悔とか、そういうの全て捨てて行けと背中を押されているような。終わり、すなわち別れと同時に、全部捨てて前を向かなきゃいけなくなる。綺麗さっぱりなサヨナラで、新しい心で何かを始めなきゃいけなくなる。

 

だけど「始まりは何かの終わりだ」にするとどうでしょうか。「サヨナラに強くなれ」という歌詞が全く綺麗事ではなくなると思うんです。名残惜しさも、後悔も、全部全部捨てなくていい。綺麗さっぱり全ての感情を捨てて笑顔でサヨナラなんてできなくていい。やるせ無さも未来への不安も離れ離れの寂しさも、全部ひっくるめて「サヨナラ」だから。全部ごちゃ混ぜな、全く綺麗なんかじゃない「サヨナラ」に強くなるんだ。別れることそのものに強くなれって言われてるんじゃない。別れに伴う全ての感情と向き合うことから逃げるなと言われてるんだ。逃げずに向き合え。強くなれ。

 

きっと嵐ファンの中にはわたしと同じように「嵐の終わりは5人の新しい道の始まり!」っていうポジティブな思いにはまだなれない人がいると思います。どっちかというと「5人の新しい道が始まった、ああ嵐は終わったんだなあ」なんじゃ無いだろうか(ここでいう終わりは深い意味はないです)。

 

けど大丈夫、Voyage最終回を見て少しわかった。「終わりは始まりだから吹っ切れ」なんて思わなくていいんだ。日常にちらつく虚無感とか寂しさとか、そんな決して明るくはない感情を無理して捨てることなんてしなくていい。始まりに伴う終わりに思いを馳せたっていい。しがみついて未来に進まないのはちょっと困っちゃうけどね、「終わり」に対して溢れる全ての感情、残したまま吹っ切らなくていい。それと向き合うことが「サヨナラに強くなる」ってことだと思います。

 

未来のどこかで今日を振り返る時、わたしは今この瞬間に感じている寂しさも虚しさも、全部残しておきたい。綺麗に修正なんかせず、剥き出しのまま思い出にしたいと思う。綺麗じゃない感情も、嵐がくれるものならそれすら愛したい、そう考えてしまうほどには5人に夢中。

 

いつになれば強くなれるかわからないし、「サヨナラを振り向くな」って歌詞もあるけれど。この「サヨナラ」を思い出にできるその時まではチラチラ振り向こうと思います。

 

 

例の如く何が言いたいのか結論が見えなくなって来たので終わります(唐突)

乃木坂46ファンの皆さん全く解釈違いだったらごめんなさい、個人の意見ですので何卒、、

 

では🤞🏼

(Enjoyのバイバイ)

 

〜完〜

一旦のラストラブレター

 

 

 この文章を書いている、2020年12月31日、AM1:47。

 スマホをタップして液晶画面に表示された、ついに訪れてしまったこの日付を確認して眠気が吹き飛んだ。そして、日付を超えてから「嵐ジオ#13」を聴いた。これは特別な拘りでもなんでもなく布団に入ったのが日付超えた後だったから。TwitterのTLでチラッと見て「花」が流れることは知ってたから、妙にドキドキした状態で再生ボタンを押した。

 

 聞こえてきたのはいつもと変わらないオープニング。いつもと変わらない?そう、「いつもと変わらないな」と思ったのだ。しかしよく考えてみれば回数にしてたった13回、期間にすればたった3ヶ月。嵐ジオを聴いていた期間は、この長い長い嵐と過ごした時間の中のほんの少しだけ。それなのに、気づけば日常の1つになってた。突如現れた新企画だったはずの嵐ジオに、いつの間にか「いつも」を見出していた自分がいることに驚いた。

 

 

 

 思い返せばいつだって嵐はそうだった。気がついた時には日常の一コマだった。わたしが特別嵐ファンじゃない時から彼らの歌が流れれば口ずさめたし、チャンネル回してレギュラー番組が放送されていれば見たし、スーパーに行けばなんとなく「嵐がCMしてたな」の気持ちで商品を見た。嵐がいなきゃ生きていけない、とまでは思わないようなその辺の人間でも、嵐がいない日常を想像するのは難しかった。というかそんな事考えたこともなかった。だって嵐はいつでもそこにいるから。

 ファンになって、嵐が日常の一コマであることを「ありがたい」と思うようになった。大好きな推しに毎日のように会える日々、感謝する以外に無いだろう。すごく嬉しくて大切で、ありがたい日々。しかし、そうは言っても嵐がいない日常を想像するのは難しかった。というかそんな事考えたこともなかった。だって嵐はいつでもここにいるから。

 

 

 ここからはわたしの個人的な話になるが、人生観というと少し大袈裟なような気がするけれど、生きていく上での考え方の一つとして「変わらないものはない」を常に持っている。所謂無常観である、武士の時代とかによくあったやつ。

 それでも、そんなわたしでも嵐のことは永遠だと思っていた。思っていたというより夢を見ていたような気がする。ううん、見ようとしていたのかな。わたしは自分自身や世界に対してドライに生きている、というより生きるようにしている。そう、本当は夢が見たいのだ。大それた夢とか語ってみたいけど、そんな自分を殺してでも、無理矢理にでも地に足つけてないと死んじゃうと思っている。自分がそんな臆病な人間だから。だから、弱さや脆さ、その全てを5人で抱えて、海辺に咲いた花のように逞しく、強く美しく夢を描いて輝く嵐に、夢を見ていた。見ようとしていた。何年経っても変わらず大声で笑う姿に終わらない青春を見ていた。ううん、見ようとしていた。いわば願いだとか祈りだとか、そういった自分本意なものに近かったのかな。

 

 休止発表を聞いた時、びっくりしてパニックで訳わかんなくて。ただただ戸惑ってる自分がいた。そして、それなのにそんな自分を冷静に見つめている自分もいた。心のどこかに「ああそうか」ってストンと落ちていた。嵐とのバイバイなんて認めたくは無いし、それを認めている自分の存在はもっと認めたく無いけれど。それでも心のどこかで納得していた。会見で5人の表情を見て言葉を聞いて、「いつか必ず来るべき時だったんだな」と思った。細かいことは当時たった15年しか生きてなかったわたしには全くわからなかったけど。だけど、きっかけが何であれ嵐にはいつか決断の日が訪れなくてはいけなくて、それがついに来ただけのこと。そう思った。清々しいまでの納得。もちろん感情としては「やだ何でよ行かないで無理ヤダヤダ」なんて思った。でも感情とか理論とかを超えた、自分の心のどの部分なのかもわからない場所で、全くの別の次元で、ただただ納得する自分がいた。

 

 

 

 そして、わたしにはこの約2年勘違いしていたことがある。嵐が約2年もくれた理由の中には、「強くなってさよならするため」が含まれていると思っていた、ということだ。発表の日から少しずつ少しずつ受け入れて、強くなって、笑顔で「さよなら」って言うために。あるいは、いつになるかはわからない、はたまた来るかもわからない日に向けた「またね」を笑顔で言うために。彼らは「感謝を伝えるために約2年の期間を設定した」と言った。それだって本気の本気だろうけれど、やっぱりわたし達ファンに「強くなるための期間」を与えてくれたようにも思った。強くなって、寂しいなんて思わず笑顔でさよならしなきゃいけないんだ、そう思っていた。

 

 でも、強くならなくてもいいのかな、と最近思う。年末が近づくにつれてそれを強く感じるようになった。

 

 わたしが「強くならなくてもいいのか」とハッとした瞬間は、伝説の求婚、すなわちスワロフスキーのプレゼントが届いた時。嵐、ファンクラブ会員数とほぼ同じ数の宝石をバックに携えて1年間ツアー回ったんだよ。わたしたちのことを背負っててくれた。どの公演にも入れた人と入れなかった人がいて。だけどそんなの関係なく、全ての人の想いを背負って1年間走ってくれたんだ。

 「喜び悲しみ全てに寄り添いながら」とのちに歌う事になる嵐。そんな5人の愛と覚悟の大きさを実感して涙が止まらなかった。嵐はわたしの「笑顔で見送りたい」も、逆に「寂しい」も「悲しい」も全部知ってるんだ。そんなの全部わかった上で、愛してくれるし想いを背負ってくれる。「強くなるための期間」だなんて彼らは思ってないのかも知れないと、そう思った。5×20ツアーの1年以上、嵐や観客全員の、その空間で生まれた笑顔も涙も全部見守ったスワロフスキーがわたしの手元にある。一粒のスワロフスキーを見て「きっとこの煌めきが心の拠り所になる」って思った。嵐に寂しがっていいんだよって言われてるような気がした。実際二宮くんは「寂しいと思ってもらえるグループに入れて幸せ」と言った。あれで確信した。寂しいと思っていいし、言っていい。だって好きだもん。ね。

 

 多分、本当の本当に彼らにとってこの約2年間は「感謝を伝えるための誠意の期間」で、それ以上でもそれ以下でもないんだろう。嵐にとってはただそれだけ。わたしが強くなるとかならないとか、そんなの嵐は気にしない。「寂しい」と声を大にして叫んでしまう弱いわたしでも愛してくれるくらいに、嵐は強い。覚悟を決めた男の本気を舐めちゃいけないね、今の嵐、最強だもん。強さがどうだなんてわたしが勝手に考えて、できない自分に勝手に落ち込んでただけだった気がする。

 

 そうやって思って強くなるのをやめた。嵐への寂しいって思い、諦めるのを諦めた。諦めるのを諦めたら、ものすごく心が楽になった。歌い踊る5人をみて寂しいと思えば素直に「寂しい」と口にして、バラエティ番組で爆笑する5人が好きだと思えば「好き」と口にした。弱いままで今を受け入れようとしたら、等身大の自分でできるところまでやろうとしたら、少し楽になった。きっとこれから弱い自分のせいで辛くて寂しくて仕方なくなると思う。でも、そんな時には嵐の1年間を、200万人以上の笑顔と涙を吸い込んだスワロフスキーを見て、嵐の名前を呼ぼうと思う。強くはなれなくても、ちゃんとわたしには味方がいると思えるから。そうやって少しずつ少しずつ、新しい日常に強くなろう。

 

 だから、とりあえず今日は今日しかない今日に全力を注ぐ。「いろんな感情をごちゃ混ぜにして全部渡すから」と語ってくれた潤くんの、嵐からの信頼に応えようと思う。楽しもうね、約20時間後の自分。

 

 

 

 

 

 この文章を書いている、2020年12月31日、PM18:00。

 15:30くらいから2時間くらい、大好きで大切な嵐友達とビデオ通話をした。皆んなで嵐縛りのしりとりしてゲラゲラ笑って。気づけば「しんどいねえ」なんて言って皆んなでしんみりしてた。「ヤダヤダヤダヤダ」って、家族にも学校の友達にも見せられない我儘で聞き分けの悪い子どものような本音を溢した。そしたら少し楽になった。止まることなく進んでいくこの世界に取り残されるような気分でいたけれど、ちゃんと1人じゃないと気づいて楽になった。この楽になれる場所も嵐がいなきゃ出会えなかった友情なんだと思うと、やっぱり嵐を好きになって良かったと思った。嵐のせいでこんなに苦しいのに、やっぱり嵐がわたしの心を楽にしてくれる。大好きで大嫌いで、やっぱりたまらなく大好き。

 

 18:00前にご飯を食べた。お蕎麦ってこんなに食べにくかったっけ?って思って、自分の喉が食べ物を拒否してることに気づいた。食道なのか胃なのかわからない部分が妙にムズムズ、ムカムカして、家族の手前無理やり飲み込めばそれと引き換えみたいに涙が溢れた。でもやっぱり家族の前では泣かなかった。そういえば休止発表の日もそうだったなあ。なんなら胃腸炎みたいなところまでいった。でも家族の前では泣かなかった。臆病な上にちょっとカッコつけたい拗らせた人間だからさ、自分をよく知る人にこそ涙を見せたくない。めんどくさいなあ自分、自分で自分に呆れて笑っちゃう。あとで嵐の前で泣きなね、翔くんは女の子の潤んだ目に弱いらしいし、ちょうどいいね。(ここに来てまであほ)

 

 もうすぐだね、二度と戻れない夜の中でいつまでも語り続けよう。永久と希望の歌?たとえ今だけとわかっていても?

 なんでこんなに嵐にぴったりなんだよ。悔しいくらいに輝いてる。さあ覚悟を決めろ自分。幸せになってね、自分。幸せにしてもらってね、自分。嵐を幸せにしてね、自分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この文章を書いている。2020年12月31日、PM23:40。

 不思議と泣いていない。いや、正確に言うともう泣き止んだ。なんだろう、悲しくて悲しくて仕方がないお別れだと思ってた。実際悲しくて寂しくて仕方ない。だけど、まさか智くんが「またね」って言うとは思わないじゃないですか。それを聞いて「喪失感」と言うものが少しだけ軽くなった。と言いながら、きっと嵐がいない日常にまたメソメソするんだろうな。でもきっと智くんの「またね」を思い出せば生きていける。

 でもやっぱり潤くんの涙も翔くんの涙もダメだった。ずるいじゃん。翔さん、貴方の涙はわたしの想像通り、ううんわたしが想像したよりもずっとずっと美しいものでした。泣かないように堪えて、何度も何度も堪えて、「ああこの人は今日も泣かない強い櫻井翔でいようとしてるんだ」と思った。それが貴方らしくて好きだなあと思った。翔さんにとっても予想外だったんじゃないかな。一筋の綺麗な涙だけを残していくだなんて。ね。大丈夫です、貴方の涙は綺麗だった。明日も君が君でいられるための涙に祝福を。「いつか笑ってまた再開」、貴方が紡いだ言葉がこんな風に貴方自身に重なる時が来るとは。どうか、叶いますように。君の夢よ、叶えと願う。

 

 ねえ潤くん、捧げ切ったね。全てを犠牲にして嵐に捧げてくれて本当にありがとう。ライブのクオリティが上がれば上がるほど、求められるものが高度になればなるほど、極めていけばいくほど嵐に捧げる部分が大きくなっていった潤くん。貴方が全てを捧げきった今日のこの日、本当に全てが一旦の終わりを迎える瞬間に流した涙は、報われた証かな。セトリを組むために1人で何回も何百曲を聴いたんでしょう。懐かしんだり苦しんだり、そういう気持ちを繰り返しながら、一生懸命にやってくれたんでしょう。その涙、貴方の努力が苦悩が犠牲が全部、報われた証だといいな。うん、そうだといい。「愛するものを殺す」と口にした貴方の気持ちは、わたしなんかには到底想像もできない。アイドルになるために生まれたような、アイドルに全てをかけて生きてきたような、アイドルであることに誇りを持って生きてきたような人間が、アイドルを離れる。相当の覚悟と愛を持って、潤くんは今日を迎えたんだろう。だから貴方の全部が報われて欲しい、報われた証の涙であって欲しい。そうであってほしいと、心の底から思う。本当に本当にありがとう。どこまでもアイドルを突き詰めた必殺仕事人な潤くん。わたしのスーパーヒーロー。大好きだよ。

 

 

 やっぱりわたしは嵐のせいで寂しいし、悲しいし、つらい。だけど、嵐のおかげで嬉しくて、楽しくて、幸せ。「またね」ってこんなに優しい言葉なんだね。夢の続きを、またいつか始めよう。戻ってきて欲しいと強く強く思うけど、押し付けたくなんかない。だから、わたしの手のひらに収まる大きさで、わたしがわたしのために、夢として持っていようと思う。この手に握っていようと思う。「夢は、また嵐に会えること」。夢だけ持ったっていいでしょ? 

 

 

 

 潤くんの言葉の通り、嵐が残した「音楽」はこれからもいつだってわたしのそばにいる。時を超え何度だって響く、The Music Never Ends。この言葉を残していく嵐は本当にズルいね。参ったよ。音楽だけじゃない、嵐がくれた嬉しい寂しい楽しい苦しい、そんな感情も全部、永遠にわたしの中にある。この記事の序盤に、嵐は永遠だと思っていたと書いた。撤回しよう。わたしは今も、嵐は永遠だと思っている。嵐が残すもの、残さず持っていくもの、全部全部含めて、嵐が21年かけて作ってきた「嵐」と言う概念、それは永遠だよ。そう、Never End。

 

 正直「またね」を言っていいのかわからなかった。言ったとしても、願いに近い、効力を持たないものじゃなきゃいけないと思ってた。だけど大野智に「またねっ!」て言われるとさ、こっちだって「またね」しか言えない。「またね」が言えなかったのに、今はもう「またね」しか言えない。そんな自分が情けないけど、またねが言えて幸せ。またね。

 

 

 

 

 二宮くん嵐にまだまだ未練だらけじゃんとか誰もこれ以上何も二宮くんから取り上げないでねとか相葉くん貴方だって人としてトップだよとか、言いたいことはいっぱいいっぱいあるはずだけど、どんなに考えても、嵐に伝えたいことは全部

 

ありがとう

 

大好き

 

愛してる

 

に帰結する。もっと上手く伝えられたらいいのに。でも、上手くなんて伝えなくていいように思う。そうだよね。弱いままでいいってさっき決めたじゃんね。だから、ありのままのわたしを嵐に捧げよう。

 

 

 最初で最後の一番で、唯一。それが嵐でした。大好きでした。

そして、きっとこれからも変わらず嵐です。

 

 

 

大野智さん、櫻井翔さん、相葉雅紀さん、二宮和也さん、松本潤さん。

 

 

 

 ありがとう。

 

 

 

まるで光に溶け込むように去っていった5人の新たな航路が、幸せに満ち溢れていますように。嵐に出会えてよかった。

嵐の後には虹がかかるし、星が瞬くよ。大丈夫。その景色はわたしが、わたしたちが、ちゃんと見てる。糸を繋げておけるようなわたしでいたい。いる。いるから、だから、どこまでも飛んでいけ。

そしてかき分けた道の先で、また出会うといいな。

 

 

 

 

いってらっしゃい。

 

 

 

 

 

この重くて長いラブレターの最後の最後に、やっぱり大好きなこの歌詞を5人に送りたい。

 

 

 

 

いつかまたね、交点の先で。

 

 

 

 

嵐、大好きだよ。ありがとう。お幸せに。

 

 

〜完〜

 

VS嵐最終回を見た話

 

 

 まさかわたしの人生に、クリスマスイブに、相葉雅紀の誕生日に、VS嵐の最終回を見る日があるなんて。そんなこと思わないじゃないですか。ね。

 そもそもVS嵐の後をVS魂で引き継ぐことが決まっている相葉くん、そんな彼のお誕生日がVS嵐の最終回だなんてあまりにもデキすぎていて、その時点でずるいんだよ。どこまでずるいの。嵐あんた達そろそろ捕まるよ(そうなん?)

 

 

 

 潤くんから相葉くんへの誕生日プレゼント、デビュー会見でハワイに行く前日に食べた焼肉屋さんのお弁当なの、まじで松本潤ロマンチストすぎてヘドバンした。大野さんにプラネタリウム見せたプロポーズ事件をオタクは忘れてないぞ。ロマンチックがカンストしてる、おかしい。

 

 メンバーそれぞれのプレゼントがいろんな形の愛に溢れていて、全部要約すれば「相葉くん大好きだよ」になるの。VS魂を「もう嵐の番組じゃなく相葉雅紀の番組なんだから」って言うのもそう。相葉くんのこと信頼してないとあんなこと言えない。愛がないとあんなこと言えない。本当に愛に溢れたグループだなあ、大好きなんだなあとしみじみした。相葉くん、「嵐を背負おう」なんて思わなくていいんです。VS魂の看板だけを背負ってください。そして、本当にお誕生日おめでとう。

 

 

 

 相葉くんが泣いていた。正しくは嵌められて泣かされていた。でも相葉くんが言ったように、結果的にゲームだとか嵌められただとかどうだっていい。あそこで素直に涙を流せる人がいること、受け止めてあげる人が4人もいること、それが嵐が嵐でいられる理由だよね。というか嵐そのもの。

 

 

 二宮くん、相葉くんに向かって「失格です」とか言ってたけど、あなた今回のあれは「バラエティの二宮和也」失格だよ。出てくる言葉は全部いつもの憎まれ口なのに、相葉くんに頭をクシャッと混ぜられて「大好きだよ」って言葉にされて、何も言えなくてただ溢れる涙と真っ赤な耳だけが正直で、照れ隠しのようにスマホ画面越しの相葉くんだけを見つめる姿。

 あの瞬間、というか5人だけの空間でいる時、番組だろうがなんだろうが二宮くんは本当の意味で「嵐の二宮和也」でいられるんだなあと思って、それで良かったと思って、わたしは泣いちゃった。

 

 二宮くんに相葉くんがいて良かったと、心の底から思う。いつだって二宮くんの掌で転がされているようなのに、大事な時には掌どころか腕をいっぱいに広げて相葉くんは二宮くんを抱きしめる。感情が昂った二宮くんはすこおしだけお口が悪くなって相葉くんに当たりが強くなる。その相手は智くんでも翔さんでも潤くんでも無くて、相葉くんにしかそうならないし、相葉くんじゃなきゃいけない。堪えた本音も涙も全部見透かして、それでも何も言わずにただ少年時代と変わらない笑顔で「大好きだよ」って言ってくれる人。大袈裟でもその場限りでもない、本当の「わかってんだよ」をくれる人。良かったね二宮くん。

 今回そうだったように、他の3人だって二宮くんの涙を見ても何も言わない。ただただ温かい眼差しで見守ってくれる。だけど、「涙を見せられる人」と「涙を出してくれる人」は似ているようでやっぱり少し違うんだと思う。二宮くんにとって「涙を見せられる人」はメンバー4人だけれど、「涙を出してくれる人」は相葉くんなんだろう。

 

 二宮くんの内側から溢れる全てを受け止めてくれる人が4人もいて、弱さを閉じ込めた心の扉に直接触れて開けてくれる相葉くんがいる。二宮くんの気持ちや意志に関係なくいとも簡単に扉を開けるし、下手したら相葉くんにすらそのつもりはないのかもしれない。「お互いの感情さえ 手にとるようで」を地で行くコンビ、UBにのあい最強。二宮くんの心の扉を開く人、それは相葉雅紀以外に居ないし居なくていい。相葉くん以外いらない。きっと2人の宇宙はわたしが思うよりずっとずっと広くて深くて神秘的だ。にのあいよ永遠なれ、そう思ってまた泣いた。

 

 

 

 

 潤担としてはやはり松本潤の話がしたい。大島さんも言ってくださったけど、EnjoyやZEROでも語ってくれて、今回のVS嵐でも触れてくれる。毎回話を振ってくれた翔さんには本当に感謝したい。

 

 Enjoyで潤くんは自分のことを話してくれる。だけど、それはEnjoyが潤くんによる潤くんのことを語るためのブログだからで。TV番組や5人の場で、潤くんは自身のことをあまり語らない。演出のことや嵐のこと、潤くんに関わるものの話は熱を持って語ってくれるけど、「松本潤自身」については話さない。話せないのかなあ、とも思う。不器用で心配性で、誤解されやすい人だから。二宮くんが言う「松本潤だからもっと自信を持っていい」「君はもともと"まつもと"」、これが全てです。どんな言葉もどんな考えも好きだよ、誰が何と言おうと貴方は松本潤で、そんな貴方が大好き。大好きだよ。

 

 「ゆっくりします」って言ってくれて嬉しかった。ゆっくりしてくれ。本当にゆっくりしてくれ。海外旅行に行くにはまだまだ時間がかかるかもしれないけど。社会の状況さえ許せば、好きな所に行って好きな人と遊んで飲んで、好きなものを食べて、好きなことをして、好きな時間に寝て好きな時間に起きて。他の誰でもない「松本潤のため」に生きてください。潤くんがメモを取らずに、細かいこと取っ払って舞台を楽しむ機会があればいいなあと、わたしは思っています。潤くん真面目だから完全プライベートでもメモ取っちゃいそうだし、そんな潤くんのことも大好きだけどね。

 

 きっと潤くんは表舞台に立つ以上、「見てくれる人のため」というエンターテイナー精神と責任感を忘れない。だから、その前にちゃんと休んで欲しい。それでまたわたし達の前に立つ時が来たら、最高の松本潤を見せてください。待ってるね。

 

 

 

 

 それで大野さんなんですけど、わたしいよいよ彼は何らかの始祖なのではないかと思い始めている。わかってるよ、ドンと構えてそっと寄り添う人だってこと。でももう行きすぎてる、そこにいるだけで心強くて泣いちゃう。失恋ショコラティエ見て泣いた理由がドラマの内容では無く「松本潤が多忙の中で勤め上げた姿に感動したから」なの、彼女どころかもはや母親。聖母。マリア。

 VS魂が不安だとプレッシャーを感じる相葉くんに「4人は見守ってる」って言うのもそう。大野さんは「この人が欲しい言葉は何か」とか考えてる人ではないと思っていて。ただ「自然に放った言葉が相手が欲しがっている言葉」な人。愛してる相手にしか出てこない言葉、声色、そして21年リーダーをやってきた人間にしかない力強さ。相葉くんが欲しいもの全部を計算では無く気づいた時にはもうあげちゃってる。大野智さん、「あなたよりも大きな愛はどこにもないんだよ」(大声)。

 

 

 

 

 

 そして最後の生対決の話をしようと思う。「勝っても負けてもうちららしいのが素敵」って大野さんそれ真理。泣いちゃう、オタク泣いちゃうから。その通り過ぎて首もげるくらい頷くか泣くかの2択。わたしは両方した。

 

 「慈しみの視線を感じる」と言うけれど、それをちゃんと感じ取るあなたが1番慈愛に満ち溢れた顔をしているということに気づいてますか櫻井さん。磁石は何だかいつもと違う気がした。TL覗いたらみんな同じこと言ってた。ああやっぱり何かが違うんだ、と思ってそれに気づいたらもうどうしようもなく胸が苦しかった。「最後まで笑っていよう」と決めたかもしれないけれど、「笑う=泣かない」では無いのにね。翔さんやっぱりすごくすごく強くて、優しくって少しバカだよね。そういう所がすごく好きですごく嫌いだよ。強くあるためには弱さも必要だと思うんだけどなあ。

 翔さん1人で泣かないでね。わたしに涙を見せてくれなんて言わないから、どうか1人誰もいない部屋で泣くのだけはやめてね。とか言うけど、やっぱりその鎧を外して涙を見せてくれたらいいなと思ってしまう。だって貴方の泣きながら笑う顔は、きっと何よりも美しいと思うから。

 

 

 

 最後の放送まで「対決」するのが、コロナ禍でも「最新のVS嵐」を届け続けてくれたVS嵐らしい。それなのに嵐が愛されすぎてた。スタッフにも相手チームにも、全ての人に愛されすぎていて。愛に溢れすぎて、誰もが嵐に勝ちをあげたくて「対決」にならないのもVS嵐らしい。約13年かけて作り上げたのが「どうなっても"らしい"よね」って結末、嵐にしかできない。チームVS嵐にしか成し得ない。愛ってすごいな。

 

 最終対決ボンバーストライカー、1発目でダメになっちゃうのが嵐すぎて、そういう不器用で特に運もなくて抱きしめたくなっちゃう感じほんとに嵐すぎて愛おしかったな。負けが確定したのにスタジオ総立ちで「がんばれ!」って応援されちゃうのも、5thターゲットだけパーフェクトでいつだって5 is my treasure numberなのも、膝付きながら必死にボール投げてる二宮くんも、誰1人諦めず手を抜かず必死にボール投げてる姿も、全部全部。「ああ嵐だなあ」と思った、わたしが愛した嵐、愛してやまない嵐だと。

 

 

 勝ち負けとかそういう次元を超えて、言葉にするならば「愛」以外に言いようがない。もっともっと嵐に似合う言葉がある気がするけれど、やっぱりあの空間はいろんな形の「愛」で溢れていた。全部全部5人が作り出した愛。嵐の優しさや温もりなんかの全て、人から人へと巡り巡って嵐に還ってきたその瞬間をこの目で見たわたしは本当に幸せ者だなあと、思う。

  

 

 

 人間知恵の輪ってあんなに泣ける競技なの?知らなかったな。5人で内側向いてまとまって初めて「成功」するの、嵐すぎるよ。そこで人間知恵の輪持ってくるのはずるいよ、ありがとう。本当にありがとう。

 

 対決に負けた悔しさよりも、過去に失敗した人間知恵の輪成功への喜びに包まれたスタジオの空気が教えてくれた。嵐が戦ってきたのはいつだって「他人」ではなく「過去の嵐」だと言うこと。昨日より今日、今日より明日、そうやって「過去の自分たち打ち勝つ事」を積み重ねて、彼らは21年「嵐」をやってきたんだなあと改めて感じて、しみじみと胸に刺さるような感覚。その小さなひとかけらをここに来てまだ積み重ねている瞬間を目の当たりにして、あのポップな画面で繰り広げられる幸せな場面で涙がホロホロ流れた。

 

 本人たちが言ったように、嵐が闘争心ではなく向上心を持ったグループだったからこそVS嵐は13年続いたのだと思う。そして嵐自身が「自分たちは闘争心剥き出しなグループじゃない」と認識していること、自分たちの武器が何かということもその使い方も心得ていることも、それも「ああ嵐だ」と思った。

 

 嵐は「戦い方」を知っている。いや、教えてもらったんだね。VS嵐や日テレ系列の冠番組、その他の多くの番組たちから。彼らがアイドルである以上、やはり歌って踊る姿が1番好きだ。だけど、その歌って踊る「アイドル」姿への愛おしさは、バラエティでの5人を見れば見るほど、新たな一面を知れば知るほど募っていくように思う。嵐が芸能界で生き残る上で必要な「『戦い方』を手に入れる」ことができたのは、他でもないバラエティ番組のおかげだろうな。

 

 

 終わりが綺麗であればあるほど、考える猶予があればあるほど哀しくなってしまう。でも、きっと5人はそれを覚悟した上で2年もくれた、綺麗に終われせることを決めた。哀しいけれど、多分これ以上にいい終わり方はない。もちろん終わらない方がいいに決まっているけれど。必ず来る、来なくてはいけない終わりがあるなら、これ以上はない。嵐はそれすら「知っている」。うん、かっこよすぎてもう何も言えないな。一生好き。

 

 

 嵐5人、スタッフの方々。VS嵐に関わった全てのチームVS嵐の皆さん、約13年本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。VS嵐が大好き。本当にありがとう。ありがとう。

 

 

 

 嵐、大好きだよ。

 

 

〜完〜

 

 

  

 

 

 

 

"We must go on 次の景色へ"に見る嵐

 

 

 

 12/11のMステを見た。2時間SPのうち1時間がまるごと嵐。VS嵐の最終回といい嵐にしやがれの最終回といい、嵐がファンだけでなく業界から愛されていること、愛されるようなグループであること、誇らしくてそれだけで泣いちゃいそうだよ。

 

 そう、泣いちゃいそうなんですよ。最近はもうメンバーの顔見るだけで泣いちゃいそう。そして、昨日のMステを見て、嵐って残酷だなって思っちゃった。なんて切なくてなんて最高なんだろうって、思った。

 

 

 

 言うまでもない、ラスト1曲が『The Music Never Ends』ですよ。そんなの泣いちゃうじゃないですか。

 

 もうすぐそこに終わりを見据えてるアイドルが全力で歌い上げる「TheMusic Never Ends」ってフレーズ、嵐じゃなきゃ納得いかない。嵐だから「この人たちはほんとに永遠だ」って思える。それなのに、なんであなたたちが泣きそうなの。なんであなたたちが1番寂しそうなの。もうあと瞬き一つで溢れ落ちそうなくらいの涙で目を潤ませて、それでも笑うんだ。その笑顔は間違いなく嘘のない幸せを纏っていて。全力で叫ぶ「The Music Never Ends」は熱烈で切実で、この上ないほど力強い。そして何よりも強く逞しいのに、彼らはあとほんの数日で自らにピリオドを打つ。ずるいよ残酷だよ。なんでそんなに優しい顔してバイバイしようとするの。いっそのこと泣いてくれればいいのに。だなんて、「嵐無理しないで泣いていいんだよ」とか言いながら、いざ嵐の涙を見ると「泣かないでよあなたたちが寂しそうな顔するのはズルい」って言っちゃうの、なんだ私が一番ズルいじゃん。ね。

 

 

 

 アルバムの曲って本来TVでは歌わないじゃないですか。Mステなんてゴールデンタイムの音楽番組、ファンじゃない人だって見てる。だから誰でも聞いたことがある国民的アイドルの嵐を10曲も披露したわけで。

 それなのに最後の最後、「ファンに伝えたいメッセージを込めた曲」を、自らの意思で歌った。自分たちに求められることを察する能力がズバ抜けて高い彼らが、ゴールデンタイムのTVでファンの嵐であることを選んでくれた。その事実1つがどれだけ凄いことなのか、どれだけ嵐ファンが嵐に愛されているのか、考えるまでもなく明白で泣いちゃう。

 

 

 

 

 そもそも、活休前ラストになるアルバムの、1番最後に収録された曲が『The Music Never Ends』なの、めちゃめちゃかっこいいじゃないですか。

 

 「止まりたくない」「風速上げていきたい」

 

 この約2年間事あるごとに言ってた言葉たち。"いつ如何なる時も前を向いて進んでいく事"が、嵐自身が定義する嵐の姿ならば。活休前のラストアルバム、1番最後に収録された曲が『The Music Never Ends』なの、どんな言葉よりもよっぽど雄弁な『This is 嵐』の意味だよ。

 

 「"これぞ嵐"ってどういう感じ?」って聞かれたら、「最後の曲が『The Music Never Ends』」しか言うこと無いの。バチくそにかっこいいじゃん。わたしが嵐だったら(?)400字詰め原稿用紙10枚に長々も魅力を綴って世間からうざがられる。(知らない)

 

 これは12/9、最後になるだろうFNS歌謡祭で、マイクを置くのではなく取る演出から始まったのと同じ。言葉にせずとも、いや言葉なんかよりやっぱど雄弁な方法で伝えてくれるんだ。「いつだって嵐の現在地は"何かの始まり"」なんだと。誰が何を言おうと、世界がどう変わろうと、彼らがどんな決断を下そうと、いつだって嵐が立ってる位置がスタートライン。活動休止だって終わりじゃない、始まりなんだ。相変わらず嵐の意志が強すぎてゾクゾクする。いつ如何なる時も前を向いて進んでいく、その全くブレない姿勢。降参だよ。

 

 

 

 

 

 ところで、この記事の題名にもしている「We must go on次の景色へ」。このフレーズは5人の表情や声が清らかであればあるほど、温かな優しさと共に残酷さを纏うような気がしている。

 

 5人が今まで何度も何度も「まだ見ぬ景色を見たい」「みんなとだから見たい景色がある」と口にしている姿を見てきた。この「We must go on次の景色へ」って歌詞も、今までと何一つ変わらない、5人はこれからも見たい景色に向かって進んでいくって意味だと思う。だけど、"5人が見る次の景色はバラバラだ"だということに気づいた時、このフレーズに全力を込める5人の姿が途端に儚く切なく見えてしまう。

 

 嵐は今までずっと同じ場所に立って、同じ時を過ごして、同じものを見て、同じ明日を見据えて、同じ夢を見てきたわけで。「これから先もずっと一緒にいる」ことが前提で口にする「次の景色」と、「違う道を歩んでいく」ことを前提とした「次の景色」は全く違う。幸せそうに寂しそうに、愛おしげに切なげに、すぐそこにある分岐点を見据えて涙ぐみながら、それでも止まろうとはしない。止まることは許されない。こんな時まで、"いつ如何なる時も前を向いて進んでいく嵐"であることを曲げない。2021年以降も、5人は別々の場所でそれぞれが、いつ如何なる時も前を向いて進む、であり続けるんだろう。だって骨の髄まで嵐だから。

 

 

 交点の先へ進む彼らはこれから別々の景色を目指す。今この瞬間同じ場所同じ温度で「We must go on」と叫んでいるのに、進む先は違うなんて。それを知っていてもなお、眩しいくらい綺麗に笑ってみせるなんて。5人表情や声が清らかであればあるほど、最高に残酷で、最高に愛おしい。

 

 

 

 そして、5人が次の景色へ進むことを誓うと同時に、わたしたちファンにも一緒に進もうって言ってくれている、と思う。2020年に置いてなんか行かないよっていう強い意志を感じる。誰のせいで2020年に留まりたがってると思ってるんだよ。だけど、そんなにまっすぐな目で「一緒に行こう」って言われたら、前に進むしかなくなるじゃないか。わたしを2020年に留まりたいと思わせるのも、2021年に連れ出してくれるのも、嵐だよ。切なくて苦しいけど、やっぱり嵐がいいんだ。

 

 

 5人が描いていく、そして見ていくであろう別々の「次の景色」が、いつかまたリンクすることを願ってしまう。結んだ交点の先の、かき分けた道のその先でまた出会うことを。他の誰でもない嵐が「分岐点」を意識し始めた、そしてそれを誰よりも寂しそうにしている2020年12月の半ば。そんなのズルい、泣いちゃうじゃないか。胸が苦しくなって張り裂けそうになる。なるけれど、嵐が残していくものが何かは、ちゃんとわかっているつもり。ちゃんと握りしめてるよ。ほら、

 

 

 

「時を超え何度だって響くThe Music Never Ends」

 

 

 

 

 形を変えても、時代の風向きが変わっても、ずっとずっと、音楽は変わらずそこにある。彼らが歌っていたという事実は変わらずここにある。

 

 

 2020年の12月31日をもうすぐそこに控える今、5人が声を重ねた日が過去になる時が迫っていることも、嵐が残していく音楽はそばにあり続けてくれることもわかっている。だけどそれでも、嵐が嵐である今日に、今日しかない今日に、嵐に夢を見る。

 

 

 

 

 嵐の歌声よ、せめて今日だけは消えないで。

 

 

 

〜完〜

 

 

相葉雅紀という名のリキュールに酔ったまま死にたい

 

 

 

♪お気に召すまま/嵐

 この曲嫌いな人いるんですか?この曲好きな人より嫌いな人のほうが理由気になるんでそっち教えろください(喧嘩を売らないでください)。

 『‪愛しさで星が廻る』なんて言っちゃうだけあって、全体的にお星様が降るようなキラキラキラ〜ってアレンジが随所に散りばめられてる。なんなら初っ端からお星様シャラシャラしちゃってる。前奏の大野さんといい間奏の二宮さんといい、フェイクの最後に音をくるんってするあれ。あれが絶妙にキュートさと色気の狭間を演出してるというか、テイストが似ている『♪抱擁』との間に感じる「対象年齢の差」はこういうところにあるというか。あのフェイクを聴くだけで「ああこれはお洒落な色気のリアコ爆発ソングだ」と即理解してしまえる。

 

 ここまでで察してもらえたかと思うんですけど、わたしはお気に召すままが好きです。はい。なんなら1曲まるまる自己解釈ぶちまけブログ書きたい。いつかしようかなできるかなわかんないな(黙)。

 今回の論点はお気に召すままから相葉雅紀を感じたいです。

は???我ながらネーミングセンスなさすぎて泣ける。穴があったら入りたいレベルのこのネーミングセンスの恥ずかしさ。まあいいやもう😌😌

 

 じゃあとりあえず語らせてください。。。

 

 お気に召すままって、スケジュール分刻み男の櫻井翔が『遅刻症の君と過ごすTonight』と歌い、ルーティーンを愛しルーティーンに愛されルーティーンに囚われた男松本潤が『いつだって予定調和ルーティーじゃダメと茶化されて』だなんて歌う超ド級スペシャルリアコ歌詞なことは有名な話ですね。うん!!(セルフレスポンス)(個人的には、ここまできたら計算全開あざとさMAX男の二宮くんに『計算じゃ図れないドラマが廻りだすのさ』って歌って欲しかった)(私情)

 

 

 ここでやっと本題に入るんですが、皆さん知ってますか。知ってますよね。

『「理屈よりリキュールを」もう1度グラスへ』って歌う男のこと。

そう、何を隠そう相葉雅紀

 

 "楽しいから笑うんじゃなくて、笑えば楽しくなるだろうって考え方。だから笑う。"

 

って相葉くんの言葉、あるじゃないですか。これってまさに相葉雅紀全開で、理屈とか感情とかそういうの全部超えた、相葉くんにしか無い " なにか " ゆえに成立する、まさに相葉くんらしい考え方だと思う。根拠もないし、理想論だとかって言われたらそこで終わっちゃうような言葉なのに、相葉くんがいうと全部「ああそっか」「なるほど」って納得しちゃう。有無を言わせないほどに人を惹きつけて離さない " なにか " が、相葉くんには確かにある。この言語化の難しい、言語とかそういうものの先にある " なにか "が、相葉くんの魅力。その " なにか " が、相葉雅紀相葉雅紀たらしめている。

 

 そんな相葉くんが『「理屈よりリキュールを」もう1度グラスへ』って歌うお気に召すまま、ほんとクラクラしちゃうな。だって、まさにそれだもん。相葉くんの理屈も言語も感情も超えた先にある魅力って、相葉くんにしか無い " なにか "って、まさにリキュールなんですよ。というかもう相葉くんがリキュールみたいなもんなんですよ(ざっくり)。

ネットのとあるサイトから引用失礼します。

 

・「アルコール」とは、お酒の成分や種類を総称したものを言います。
・「リキュール」とは、お酒に薬草や薬草エキスを入れたものを言います。

 

 うん。大事なことなのでもう1回いってもいいですか?わんもあたいむ。

 

・「アルコール」とは、お酒の成分や種類を総称したものを言います。
・「リキュール」とは、お酒に薬草や薬草エキスを入れたものを言います。

 

 アルコールとリキュールって違うんですよ。違うっていうか、リキュール=アルコールだけどアルコール=リキュールではない。合ってる?解釈の仕方合ってる?間違ってたら誰か教えて。なにこの急なお酒講座みたいな。ちなみにわたしはまだ未成年ですよ。未成年だからね、アルコールとリキュールが違うことすら知らなかった。なかなか気が付かなかったし、気が付いた時の興奮具合は人間じゃなかった。(?)

 あのね、そりゃ「理屈とアルコール」より「理屈とリキュール」の方が語感が似てるし、歌詞なんだから語感を大切にする意味でアルコールではなくリキュールを選んだ可能性はあります。むしろそっちの説が正しい気さえする。けども!!!

 

 相葉くんの魅力に落ちた、「相葉くん好き」な状態を相葉くんに酔っている、って表現にするとします。

 そうするとね、未成年の勝手な偏見ですけど、相葉くんってビールや焼酎よりカクテルとかそっち系なんですよね。

 お酒なんだよ。確かに酔いが回るようなお酒なんだけど、果実とかハーブとか入ってんの。しかもなにが入ってるのかは教えてもらえないの。確実なのは「虜になって離れられない」っていう事実だけで、その奥深くの成分とかは教えてもらえない。教えてもらえないけど、相葉くんには確かに心を溶かすような甘ったるい果実が入ってるし、安心感や安らぎをくれるハーブも入ってるし、なにより視界に入ったが最後、目を離せないような美しい色してんの。

例えばそれがリンゴなのかイチゴなのかとか、ローズマリーなのかミントなのかとかは教えてもらえないんだけどね。確実なのは「虜になって離れられない」、ただそれだけ。

 

そのまま飲むこともあるが、多くはソーダ割りやカクテルの材料、菓子の風味付けなどに使う

 

『会いたいと言えばいい』って囁く相葉くん、まさに曲への風味付けじゃん。

 

 ほんとうに驚いている。相葉くんが持っている、人を捉えて離さないような、そこに触れてしまった瞬間虜になってしまうような " なにか " って、効力がまさにお酒そのもので。「ポジティブ明るい太陽みたいな優しい人」だけじゃなくて、相葉くんの奥深くに眠る魅力たち、知れば知るほどハマって抜け出せなくなっちゃうなんて、まさにリキュール。

 

 お酒独特の刺激も甘ったるい果実も安らぎのハーブも目を離せないような見た目も持ってる相葉くん。けどなにが1番罪かって、本人にリアコ製造機な自覚がないことですよね。無自覚に人を捉えて酔わせて狂わせる。かと思えば急に現実的なこと言い出すこともある。Happinessの『明日を迎えに行こう』って歌詞について「(明日は)来ちゃうのにね」って言ったのはほんとに忘れられないな。突然理性的な部分が現れて、現実を突きつけてくる。そこでハッと酔いから覚まされたかと思えば、次の瞬間には全人類の彼氏みたいな顔してる。

理屈を超えたリキュールに、もう酔うしかない。

 

はぁぁぁぁ。相葉雅紀って罪。とりあえず、お気に召すままの歌割りをした方のセンスにひれ伏して土下寝だ。そしたらその先はもう、リキュールみたいな相葉雅紀の魅力に酔いしれたまま死んでいきたい。

 

〜完〜